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『すじ湯』(鉄輪温泉) 温泉コラム 1

『すじ湯』(鉄輪温泉) 温泉コラム 1

夕暮れ時、『 すじ湯 』の扉をからからと引く。ほっかりと湿っぽい脱衣所のにおいが 、 晩秋の冷気に消えていく 。湯気の上る浴槽はすぐ目の前にある。
温泉って、「脱衣所から扉を開けて入 った浴室 」のことで、「 洗い場でシャワーを使った後に浴槽に浸かる」ものだと思っていたから、初めはびっくりした。別府の公衆温泉の多くは、脱衣所――洗い場――浴槽がひとつづきになっている。シャワーもない 。

「熱くないかい?」先に入っていたおばあちゃんが話しかけた。
「もう、慣れました」、答えるとおばあちゃんは「そうかい」と笑った。
「お隣の『熱の湯』も、熱くなかったです」と私は、熱そうな名前を冠した温泉のことを話す。
「ああ、『熱の湯』より『渋の湯』のほうが熱いんよ、でもぬるいときはぬるいけぇね 」
別府のお湯は総じて 熱いが 、もう慣れた。浴槽だけの「 ひとつづき 空間 」にもすぐに慣れた 。

別府は海と山に囲まれ、別府湾に沿って南北にのびた町だ。だから別府の人は方角を示すときに「海側」「山側」という。 ちょうど京都の人が「上ル」「下ル」を使うように。
町と山の境界に沿って 「別府 8湯」と言われる 8か所の温泉郷があり、そのひとつが、 ぴったりと山肌に張り付いた「山側」の町・ 鉄輪(かんなわ)エリアだった。

「8湯」の中に源泉がどれほどあるかというと、 日本全国の源泉の10分の1があるらしい 。
その数は2000孔を超える 。 湧出量も日本 1位 、 世界2位( 世界 1位はアメリカのイエローストーン)。
ここは名実ともに「日本一」の温泉地なのであった。

さてしかし、観光地としてあまりに有名だと、そこでの暮らしがなかなか想像しづらくなって、それはひとつ問題でもある。
「別府からリモートで働いています」というと、いつも「うらやましい」と言われる。「うらやましい、温泉三昧じゃん」と。「私も/僕も、のんびり休みに温泉行きたい」と。

いやたしかに、温泉三昧である。なんなら毎日、100円や 200円で違う温泉に通っている。
でもそれは別府界隈 が、「 家風呂が外に拡張した町 」だからである。私たちはこの町に住みながら、行きつけの食堂を家の台所代わりにするように、居酒屋をテレビ代わりにするように、コワーキングスペースをデスク代わりにするように、衣食住の中にある「浴」を外に出して暮らしている。

「休み」に温泉に浸かるのではなく、「住み、働き、 行きつけの飲み屋に行く」延長で温泉に通う 。そんな暮らしを3カ月 。
都会出身の私にとってかつて「ぜいたく品」だった温泉は、ここにきて日常の一部になってしまった。仕事に飽きた昼下がりでも、二日酔いの朝でも、肌寒い夜でも、家のシャワーをひねるのと同じような気軽さで、 ざぶんとお湯にくぐる。

私はまた、執筆していた本の初稿が完成し、それをやっと編集者に送り付けた晴れやかな秋の夕暮れにも、『すじ湯』を訪れた 。

ばさりと顔を湯でぬぐうと、ほんのりと鉄と塩の味がした。鉄と塩の強く溶けこんだ鉄輪の温泉では、湯をなめることにも楽しみがあると、その日知った。

『すじ湯』を出ると、 道沿いにはこま切れに銭湯や温泉宿の看板がつづいていた。透かし彫りのように細い石畳の坂を 、「山側」に上る。
脱衣所のにおいは街じゅうに出てきて、柔らかく漂っている 。湯けむりが立ちのぼる裏通りが、どこか眠い。いつの間にか日は暮れて、夜風は冷たく、小道はしゅうしゅう音を立てていた。まるで地中から、大きな誰かが息を吐いているようだと私は思った。

文:原口 侑子
写真:©︎ 85mm Closer




別府で暮らし始めた経緯 

今年の春に帰国したら、Covid-19の影響でしばらく日本に滞在することになった。
「じゃあ、国内で行ってみたかったところに行って、暮らしてみよう」ということになった。
パートナーは温泉地で暮らしたいと言った。私は九州に来たかった。第一候補として別府が浮上し、夏にお試しで3週間暮らした。

夏の日差しがゆるむ夕暮れに、毎日海辺を歩いた。
素敵な一軒家を借り、青魚と日本酒、鶏刺しと焼酎に舌鼓を打った。飲食店には「STOPコロナ差別」という張り紙を見た。
毎日100円や200円で温泉に入れるという生活そのものが、極上のごちそうのようであった。

別府の美味しさと懐の深さと、その暮らしやすさの源泉を、もっと知りたくなって、秋から3ヵ月の期間限定で、再び別府に住まわせてもらっている。

著者紹介 

原口侑子(はらぐちゆうこ)ライター・弁護士
東京都生まれ。世界各国への旅(124カ国)、開発コンサルタント(アジア・アフリカの制度調査)などを経て、30カ国の裁判所を巡った『世界の裁判を旅する(仮)』(コトニ社)を2021年刊行予定。

その他ウェブメディア掲載記事:
https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E5%8E%9F%E5%8F%A3%20%E4%BE%91%E5%AD%90(紀行エッセイ)
https://www.call4.jp/story/(社会記事/訴訟ストーリー)

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